J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」

ライ麦畑でつかまえて

自身の中で「グレート・ギャッツビー」と同じくらいの距離感、特別感を抱いて横目に通り過ぎていました一冊。ギャッツビーは10年くらい前に読みましたが、こちらは未読でした。

先日、学生時分の友人が、お手紙にこの本のとある箇所を抜粋してくれまして一念発起。野崎さん翻訳版を読んでみました。

 

抜粋してくれたのは、白水ブックス・野崎孝一さん訳の268-269Pあたり。

以下、「ほほう、これはライ麦畑でつかまえて、を引用している作品なのか。果たして誰のなんていう小説なんだろう!?」と思って検索かけて打ちのめされたくらい無教養な僕の書き殴り感想文となります。

あ、あとこれは既に同書を読んでいる先輩方を対象とした感想文になっていますので、ネタバレへの配慮も何もあったものじゃありません。未読の方は、こんな場末のblogで触れる前に、とりあえず買ってきて読んでみたらいいと思います名作だと思います。何様だ僕は。

各章が程よい、と思うよりちょっと長めの文章量。

通勤の電車内で読み進める上では、ちょっと駆け足になる量。

「次の章に移るまで、あと何ページかしらん」と指でページを手繰りつつ、エイヤッ、と読み終えました。最後の方はその辺気にせずウオオーと読んでました。

 

いざ実家に帰るまでのアレコレは、映画「アメリカン・グラフィティ」を思い出す、青春にひたむきな描写が続きます。あちらとの描写の共通点とかでなくて、"タイムリミットが迫っているのに、ふつふつと滾るエネルギーをどこにぶつけたらいいのか分からず、忙しなく歩き回るしかない"様子。目的に向かって走り出すのではなく、あてどなく、常に歩き回らざるを得ない感じ。

 

身近な同寮生たちにイラつき、(年齢を問わず)女の子たちには素直に惹かれ憧れて、尚満たされず。あちこち出かけ歩き回っては、時々自分の年齢や立場をはじめとした現実にキリキリと落ち込む様子。

"この行動をした結果・何がどうなる"と冷静に思慮する余裕もないまま、衝動的に動いて喋ってしまう描写。このままどこまでも夜通し歩いていけそうに思える体力と、どこまで行けるのか戸惑い怯える思考が生々しくて魅力的です。エレベーターボーイに引っ掛けられての顛末とか、たまりません。

 

現時点、本作で一番好きなのは、深夜、実家に忍び込み、目的だった妹・フィービーとのお話しも果たし、また慌ただしく出ていこうとする時のやりとり。

それまでひたすら歩き遊びまわってしまい、すっからかんになってしまった僕は、フィービーから少しだけお金を借りていこうとする。彼女が"プレゼントやなんかを買う"ために両親からもらった"クリスマスのおこづかい"しか今は持っていないことを知ると、さすがに僕は辞退する。ところが彼女は自室の真っ暗闇の机から、手探りで取り出したお金を僕に手渡す。

 

「おい、こんなには要らないよ」と、僕は言った。

「二ドルももらえば、それで十分だ。嘘じゃないよ――はい」そう言って僕は、それを返そうとしたんだが、彼女は受け取らないんだな。

「みんな持ってっていいの。あとで返してくれればいいわ。劇のときに持ってきて」

「いったい、いくらあるんだい?」

「八ドル八十五セント。あ、六十五セントだ。少し使ったから」

それから、僕は、急に泣きだしちまったんだな。

 

きちっと残額を諳んじる程に大切だったお金を、フィービーが全幅の信頼と愛を持って手渡してくれたこと。

(勿論、そこに至るまでの会話・やりとりも併せての話です)

数日間の夜を徹し、あてどなく行く当てもなく自信の若い空想の中をさ迷い続けて来た僕が、不意に自分に向けられた愛を肉親から全力で食らって泣いてしまう場面が今は一番好きです。

 

……その後、サラリと救いをもたらしてくれそうな印象のアントリーニ先生夫妻宅でのやりとりも大好きなのですが、これはこれで、また改めて感想文を掘り下げなきゃなのかもで、割愛します。それはそれ、響いたことは確かです。そのとき先生が書いてくれた紙を、今でも僕は持ってんだから。